日本からお寺がなくなってもいい?

日本からお寺がなくなってもいい?

こんにちは、ミズキです。

秋セメスターが始まってようやく一週間が経ちました。今学期は2つの授業を担当しています。新入生対象のイントロクラスと、2年から4年生対象の動物行動学実習。アメリカではもうマスクはつけなくて良いのですが、生物学部では最初の2週間は学生さんにつけてもらおうという先生が多く、僕もその一人です。マスクがあると学生の顔が覚えられなくて大変。💦

それは置いておいて、今日は、「日本からお寺がなくなってもいいのか?」についてのお話です。

お寺が無くなるということは、お坊さんがいなくなるということで、物理的なお寺がなくなると同時に実践的な仏教の場が日本から無くなるということです。実際のところ日本人の何割が「これは大変な問題だ」と感じているのか、見当もつきませんが、多くの人が考えるべき問題だと思います。たくさんのお寺はいま絶滅の危機に瀕しているのですから。

結論から言うと、このブログのテーマであり、僕の人生のテーマである、「人と自然の環」、つまり日本と言う国で「自然と人間が生態系の環の中で上手に共存できる未来」を目指す上で、お寺や神社の物理的存在と、その教えはなくてはならないものだと、僕は思っています。

お寺、神社問題については、これまで何度も考える機会がありましたが(例えばこのブログ)、今回考えるきっかけを与えてくれたのが、大愚(たいぐ)さんという和尚さんです。YouTubeで一問一答というチャンネルをやっている方で、尊敬する人物の一人です。僕は彼の一問一答をかれこれ5年ほど、おそらく100以上のお話を聞いています。彼の本も読みました。

今朝の一問一答はお寺の税法についての話しでした。後半だいぶ熱が入り、お寺や神社が存続の危機に瀕している現状についてまでも話が及びました。「お寺や神社が日本の原風景から無くなっても良いのでしょうか?」と、彼は問いかけます。「私は強い危機感を感じています。この現状を何とかしなくてはいけないと思っていると」と。

素直に心が動かされました。仏教の根本原理の一つが、「社会のために精進する」ことです。このお坊さんは社会における仏教の役割を真剣に考えている方だなと感じます。もう何年も彼の話を聞き、人となりもなんとなく分かってきて、だからこそ心が動かされたと思うのですが、お坊さんの中には、実際すごい人たちがいるです!

僕は宗教嫌いの両親のもとで育ち、僕自身も「宗教は人々の争いのもとになる」「日本には胡散臭い宗教がばかり」「坊主なんてろくなもんがいない」と思い、そう実際感じて大人になりました。多くの日本人がきっとそう感じているのではないでしょうか。実際、父が癌で倒れた時には、母は宗教嫌いなくせに怪しい宗教に傾倒してしまい、「健康に良い高価な水」を買っていた(買わされていた)時期があります。なんとか説得して辞めさせましたが…。人の弱みにつけこみ金儲けをする「宗教」はやっぱり社会の毒だなと再認識した出来事でした。

お寺に行ってお坊さんの話を聞いたことも何度かありました。が、「いやいや、こんな坊主たちからはありがたくお話を頂戴しようと思わないなぁ、苦笑」、と当時の僕は感じました。もちろん僕が未熟だっただけかもしれませんが。

そんな僕の宗教観、仏教観を変えたのが、この小さな町で出会うことになった一人のアメリカ人女性です。彼女はこの町出身の白人女性で、ひょんなことから日本に行くことになり、そこで坐禅に出会い、出家して10年ほど曹洞宗のお寺(名古屋の尼僧堂)で修行した経歴の持ち主です。四国のお遍路回りもしたことがあるし、四国から名古屋まで托鉢をしながら歩いていったこともあるそうです。とにかく聞く話、話がすごすぎなんですが、当の本人は淡々と、「日本は良かったわねぇ~」と話すわけです。

曹洞宗の教えをアメリカにも広めたいとの思いで帰ってきたわけですが、彼女はもう80歳を回り、現役を引退し(日本の仏教界では引退はないのかもしれませんが)、髪も伸ばしています。僕が初めて会ったのは10年ほど前でしたが、当時は頭をまるめていていつも袈裟をまとっていました。他のアメリカ人から奇異の目で見られて買い物に行っても誰も話かけてくれなかったそうです。

この町に日本人は数えるほどしか住んでいません。なので日本に住んでいて日本語が話せる彼女とは友人を通して必然的に繋がりました。お坊さんと聞いていたので、変わったアメリカ人もいるもんだな、位にしか思っていなかったのですが、彼女に実際に会った時の印象は意外にも、

「この人はなんだか只者ではないな」というものでした。

穏やかで優しい、時には力強い目でじっと見られて話をしていると、なんだか自分の心が見透かされている気がしました。こんな人には会ったことがない。この雰囲気は見せかけなのか、本物なのか?と思いました。

細い付き合いが何年か続きました。彼女の言動はぶれず、彼女を慕ってくるいかなる人にも優しく、そして時には厳しい。暮らしも質素で、謙虚。そんな彼女ですが、若い時には嫉妬と怒りに翻弄されて苦しかったと言います。そして苦しんでいた彼女を導いたのが仏教だったのです。

彼女は結婚もしていませんし、子供いません。年老いた弟たちの様子を心配しながら生活していますが、自分ももう運転もできないので会いにいくこともできません。けれども彼女の周りには彼女を慕う弟子たちがたくさんいて彼女の生活を支えています。彼女は、尼僧になって本当に良かった、と語ります。

彼女が枯れかけたアヤメの花を筆にして書いた「心」。アヤメの持つ色のみです。実家の玄関に飾ってあります。

今僕が尊敬するこの人物を形作ったのは仏教であり、仏教の修行なのだ、との結論に至ってから、彼女のもとで坐禅を始め、仏教関連の本を読み、お坊さんの書いた生きることについての本も読みました。そして仏教の源流を成す教えとは理論的で価値の高い(尊い)ものだということを知ったのです。

だからと言って、特定の仏教の宗派に属したり、献金をしたりということはありません。ただ過去の賢人たちが人生をかけて探求し、2600年もの長い間受け継がれた、「人生を巧みに生きる教え」を自分の人生に引用し(科学論文を引用するように)、人と人、人と自然のより良い関係作りに生かさない手はないと思うのです。

長くなってしまいましたが、これが僕がこのブログの最初にある結論に至るまでの道のりです。日本の自然保護において社寺林の果たす役割については、羽黒山についてのブログ(またしつこくリンク張っときます。笑)で紹介した通りです。日本からお寺や神社がなくなったらなんと味気のない国になってしまうでしょう。例えば、老若男女問わずあんなにたくさんの人が高尾山を訪れるのは薬王院とその信仰が守ってきた自然があるからです。

こんなブログを10年前の自分が読んだら、「こりゃ、いいおっさんがおっさんらしいこと言ってるな」と鼻にもかけないかもしれません(苦笑)。でもこれが今僕が思うことであり、お寺について多くの人に考えてもらいたいと思います。心あるお坊さんにも頑張ってもらいたいです。人知れず悩み努力しているすごいお坊さんたちが日本にはまだたくさんいるはずです。

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